naebono Talk 01 – 進藤冬華「アメリカ滞在報告 & 札幌で制作活動を続けること」-第3回 [「権力」及び「本流と地方」について]


進藤冬華
「アメリカ滞在報告 & 札幌で制作活動を続けること」

聞き手:山本雄基

2018年1月7日

この対談は、2018年1月7日にnaebonoにて行ったトークイベント『進藤冬華「アメリカ滞在報告&札幌で制作活動を続けること」』の内容を元に、ウェブ用に新たに加筆・修正を加えたバージョンです。
全5回に分けて掲載します。


第3回 [「権力」及び「本流と地方」について]

山本:
ニューヨークで美術とか美術史を体感していく中で、
ケプロンの調査と、ニューヨークの美術の見かたっていうのが、
進藤さんのなかで重なる感覚があったっていうお話も事前にされてましたね。

進藤:
ケプロンを知ることで、間接的に北海道開拓の歴史をわかってくることになるんですよね。
今回ケプロンの事をやろうと思った理由は、原始時代から現代の北海道の歴史を眺めてみて、
開拓が北海道の歴史の中で絶対に外せない、大きな転換期の一つだと思ったからです。 
今まではもっと行き当たりばったりで、作品ごとに小さな北海道のトピックをピックアップして作品を作るという感じだったので、
今までよりちょっと大掛かりになったと思う。
ケプロンのことや開拓を取り上げると、どのようにして北海道を日本の中に組み込んでいくかという国の政策が見えてくる。
今までよりももっと、国とか権力みたいなもの、政治のことを考える機会になった。
そういう認識を持ったタイミングでニューヨークの美術の様子を見て、
さっきのグッケンハイムの話みたいに誰が美術の歴史を決めているのかなど、
一歩引いた視点で状況を観察するようになったかもしれません。
自分のプロジェクトの物事を観察する方法が、美術の状況を見る方法に影響したんだと思う。

山本:
うんうん。今の話は、次の項目の権力の事、というのとも繋がると思うんですけど。

キーワード「権力」

山本:
今の話のような権威的なものごとに対する、進藤さんの立ち位置というか、向きあい方って、どう考えていますか?

進藤:
権力とか権威的なものは、心地が悪いんですよね。押し付けられるような感じとかがしちゃう。
制作を通じてずっと北海道ってどういう場所なのかなということを、考えてきて思うのは、
北海道って色々な文化や自然環境とか、もちろん政治とか、たくさんの要素があってこの地域ができていると思う。
見る人によって、同じ地域や歴史も違って見えるだろうし。
だから、一方的にこれですよって決められた教科書みたいな歴史や文化みたいなものを、差し出されると不信に感じます。
だからといって、アクティヴィズムのようにそういったことに反対したいわけではなくて、本当はどうなっているのか自分で考えて、違う可能性を見せたくて活動をしていると言えるかも。

山本:
それは作品制作の形になる上で、肝になる部分ですよね。
というのも、前に話したときに、進藤さんの作品に対する話で、
作品って「そこに作品として取り扱える公共の可能性がある」
っていう言い方をされていたんですよね。

進藤:
肝になる部分だとおもいます。
「作品として取り扱える公共の可能性」って地方の話をした時に出た言葉だよね?
またあとでも話しますが、作品って観客に向けて一方的に発信しているのではなくて、観客とのコミュニケーションというか、観客が何かを考えるきっかけにならないと、公に発表する意味が薄いように思います。

山本:
なるほど、そうですね。わかります。
ちなみに、美術、美術史、美術館、歴史…ある意味すべて権力的な構造を持っていますよね。
博物館にも権威的な構造があると思います。

進藤:
そうですね。私は博物館と関わって作品を作る機会があるのですが、
例えば、博物館に何かが収蔵される事で価値がついたりするのは、物の価値を決める役割が博物館にあるってことですよね。
他に、2015年のハンブルグのレジデンスに参加した際、地元の民族博物館にあるアイヌのコレクションについて調べて作品を作ったことがあるけど、博物館が西側の植民地政策とあいまって、世界各地からあらゆるものを集めた搾取の背景があるのを知って、西側の権力の歴史みたいなことを感じました。
一方で博物館は過去の様々な情報が保存、研究されていて、後世に伝えて行く役割もあるし、それらと関わる事でコレクションの背景に広がる様々な学びもあります。
そして私自身その恩恵にあやかっていることも事実です。
だから、権威的な所に対する心地の悪さと、博物館の豊かさのどちらも感じています。

キーワード「本流と地方」

山本:
このまま次の項目にも行きますね、本流と地方の事。

進藤:
この言い方は、ニューヨークと札幌のような都市と地方の対立構造って意味で今は使います。

山本:
「本流」という考え方自体もまた、ひとつの権力みたいなものとも考えられますよね。
それを踏まえた上で、仮に美術の本流という言いかたもできるニューヨークと、
対して地方という言いかたができる札幌に帰ってきて、どんなことを思ったのか?
札幌という場所から考えると、ニューヨークの美術史のように対国外としての比較だけではなくて、
国内でも日本史というものがあって、一方で北海道史というものがある。
それを考えたときにも、自分の立ち位置がぐらぐらしてしまう、という話もされていました。
これも美術史に対する違和感と重なる部分がありますね。

進藤:
ニューヨークから帰って来て、札幌の展覧会やイベントを見て、自分の言葉でどう思ったか以前よりも言えるようになったと感じます。
一方で歴史のことでいえば、学校で習っている日本史って、みんなが共有しているものだけど、北海道で起こっていないことが沢山入っている。
そのリアリティの無さが、私にとってモヤモヤとしてある。
一方でそれと同じく、北海道史を見てもそれが自分のものかと言われると、開拓以前のアイヌの歴史を考えると、
私は含まれていないんじゃないかと思ってしまう。じゃあ私はどこの立ち位置にいればいいのか、私の軸はどこなのか、
と考えて、どうしたらいいんだろうと思う。
だけど、大きい流れの教科書みたいな歴史って、みんな共有しているけど、地方の人にとっての二重性というか
地方の歴史と、学校で習う歴史を二つ持ち合わせるということって普通の事で、
北海道の人だけじゃなく地方であれば、国内外問わず同じような事が起こりえる。
そう考えると、私の感じる軸の定まらない感覚も、私だけのものじゃなくて、もっと公共性がある他の人にも共感できる話だと思う。
それって美術の中で言える、一つのトピックになるんじゃないか、と思っています。

山本:
それが「そこに作品として取り扱える公共の可能性がある」ということですね。

進藤:
そうです。

山本:
このあたりは札幌で活動されている方にも共有できる話かなと。
自分の立ち位置とか軸の話で言うと、僕の場合は歴史よりも構造の方に関心があって。
僕は帯広出身で、子供のころはもっと小さい豊頃町という人口4000人くらいの町にも住んでました。
本流を中心と言い換えれば、
豊頃にとって中心は帯広、帯広からみて中心は札幌、札幌からみて中心は東京、東京から見て中心はニューヨーク…。
というように、中心と周縁の構造はどこまでも連鎖する。
そう考えると札幌は、中心性も周縁性も持っていて、宙ぶらりん感が性には合っている気がする。
それに大都市レベル同士では、国をまたいでローカリズムが消される共有性がある。
地下鉄などの移動インフラや、グローバルチェーン店が並ぶ大都市の光景に、
つまらなさと安心を両方感じる、みたいなこと。
これらの構造自体の方に、僕は関心を感じるんですよね。
大都市に暮らすということは、その権威性にどこかで甘えてしまうことにもなるんだけど。
逆にどんな大都市でも小さな町でもその場特有の文化、ローカル性が並列的に存在している。
だからニューヨークも、できるだけ「大都市+ひとつの巨大ローカル」と考えるようにしています。

進藤:
「大都市+ひとつの巨大ローカル」っていうのは、山本君の話を聞くと良く理解できます。
多分、山本君は現代の都市インフラや都市-地方間の美術史や美術を良く見ることで状況を把握して、
私は歴史やニューヨークの体験から自分の位置を把握するってことをしていて、
全然違う切り口だけど、同じようなことを感じている部分もあるのでしょう。

山本:
そうですね。あと、すでに進藤さんは学生としてベルファストに長期間住んでいましたし、
フィリピン、ハンブルグ、日本でも東京から対馬まで全く異なる文化圏で作品を抽出してきた経験を持っていて、
札幌の同年代アーティストの中では圧倒的に多文化、他地域に触れていますよね。
その上で、今回のニューヨーク体験で今までに無い疑問が生まれたということは、
他地域との差異が凄かったからでしょうか?

進藤:
ニューヨークにある期間滞在して、そこでたくさん作品を見る機会があったことと、見たものについて考える時間があったからかもしれません。その中で感じた事の一つが違和感とか権力ってことになるんだと思う。
それにニューヨークの現場って、私が事前に知っているような有名作品があったり、美術の歴史が起こった場所で、それは今までとはちょっと違う。
現地に行った事で、行く前から知っていたことにさらに知識や体験が盛られた。
滞在中は良い作品や展覧会も見れたし、真摯に美術に携わっている人に出会えて、自分ももっと良い作品を作りたいと思ったし、真摯に取り組んでいる人たちと一緒に仕事をしてみたいとも思いました。それは以前と違う。


>>第4回[引用について、及び、質疑応答 前編]に続く