naebono Talk 01 – 進藤冬華「アメリカ滞在報告 & 札幌で制作活動を続けること」-第4回[引用について、及び、質疑応答 前編]


進藤冬華
「アメリカ滞在報告 & 札幌で制作活動を続けること」

聞き手:山本雄基

2018年1月7日

この対談は、2018年1月7日にnaebonoにて行ったトークイベント『進藤冬華「アメリカ滞在報告&札幌で制作活動を続けること」』の内容を元に、ウェブ用に新たに加筆・修正を加えたバージョンです。
全5回に分けて掲載します。


第4回[引用について、及び、質疑応答 前編]

キーワード「引用」
進藤:
じゃあ次、引用について。これはもうLaura Owensの話でもほとんど言ったけれど。
美術の引用、歴史の引用など、作品の中で私でもわかるぐらいの引用をたくさん見たので印象に残りました。
ちなみに山本くんは画家の視点でLauraの作品はどう見えるの?

山本:
これは話し始めると止まらなくなりそうなので(笑)、引用に絞ってみると、
中国絵画だったり、ロートレックだったり、厚塗りの筆跡、さらに美術だけではなく、
新聞とか、子供向けの絵本とかノートとか、、ネットの画面、フォトショのブラシツール、gifまで、
画像と言える存在を広く解釈して、いろんな塗りの痕跡と空間に変換して落とし込んでいる。
画像の考え方の広さや、それらを絵画化する必然というのは、画家として理解できるし、
絵画の権威性とかアメリカ美術の権威性を脱却させる効果としても、美術以外の引用も使ってるんだと思います。
ニューヨークに対するLA的な軽やかさみたいな感じもあるし。そういう態度の部分は参考にはなると思って見ています。
一方でポップアート以降の態度のアップデートという点とか、
イメージを大画面と平面性に落とし込むプロセスの部分は、
まさにアメリカの王道な絵画の方法論を前提として引き継いでいるんじゃないかな。

進藤:
過去-現在ー未来がきちんと作品の中で繋がっていて、それを必然を持ってやってるんですね。

山本:
ええ。進藤さんが普段札幌で美術を見るとき、札幌でも大きな美術史に対する意識とか、
そこから引用をする作品を観ていて、
それに不思議な違和感を感じる、という話をされていましたよね。

進藤:
うん。なんか、突然現れるような感じがするんですよね。
もちろん美術をどこの場所でやっていても、本流からのなんらかの影響があるとしても、
なんだか場違いな印象を受けたりすることがある。

山本:
あとは、札幌にいると本流に対する憧れが強くなりがち、というケースもありますね。

進藤:
そういうのもあるかもしれない。
やっぱりニューヨークで観た作品は、現場ならではで、
引用に必然とかリアリティみたいなものがあって、強いと思った。

山本:
ニューヨークで活動している作家にとっては、美術館とかに行けば僕らが知っている美術史の実物があって、
それが、僕らにとっての地方の問題と同じように、美術史の問題が自分の問題とリンクするから、
引用する必然もあるってことですよね。
それに対して、札幌の僕らが例えばニューヨークで体感できる美術史を引用した時には、ちょっと違う意味になってくると。

進藤:
確かにそうですね。
全然違う方向に解釈して、オリジナルに変化していくこともありそう。

山本:
そこもやっぱり、どれくらい自分に必然があるかという作家のリアリティに関わってくると思います。
憧れだけで全部を西洋美術史の引用にしてしまったら、わざわざここでやる意味っていうのがあまり見えてこない。
西洋の影響は情報として自分には与えられて、それを引用する時に自分はなぜそれを引用しなければならないのか、
本流の中にいる彼らのリアリティとは別のところで考えていかなきゃならないんじゃないかな。

進藤:
それは大事ですよね。そうなると、ちぐはぐな感じはなくなりそうです。
現在はSNSもあるから昔とは違うとはいえ、同じトピックでも現場と地方では同じようには情報は入ってこないよね。言葉の問題もあるし。
だから引用したとしても、結果として違う風になったりするのかもね。

山本:
そうですね。情報の圧で言えば、現地には敵わない。
それでも、実物の作品を見た時のリアリティは、憧れを超える現実になると僕は考えているので、
気になるアーティストの作品はどんどん実物を見に行くし、その感覚を血肉として、そこからの影響は大事にしています。
余計な憧れは消すためにも。
進藤さん自身は、引用とかに関してはやっぱり距離を置いてこれからも作品を作っていこう、という感じですか?

進藤:
今後はわからないけど、美術史の中だけで作品を作るってことはないと思います。

山本:
美術の鑑賞は自分の作品の直接のヒントになる、というよりは…

進藤:
多分、なんだろ…美術ファン的に見てる(笑)。「趣味は作品鑑賞です」みたいに。
だから、自分と全然関係ない作品とかでもある程度楽しんで見ていると思う。

山本:
鑑賞は、美術作品としてのクオリティを測る、という意味もないんですか?
作品に対するクオリティってどういう風に考えていますか?多分すごい個人的なジャッジの線があると思いますが…

進藤:
いろいろあるんだけど、鑑賞してる立場で一つわかりやすいのは、
感動するってこととかは純粋にあると思いますけど、
その時によって、グッゲンハイムの中国の展覧会を見た時みたいに展覧会自体に面白みを見いだすことも、作品に感動する事も。
色々な作品をたくさん見て、考える事は重要だとは思っています。

山本:
じゃあ、ここまでで一通りトピックは済みました。
いろいろ出てきましたね。ではここから質疑応答に。
お客さんの方から、全体を通してなにか質問などがあればお願いします。

質問者1:
僕ちょっと古い人間なので、僕の時代感覚的なものと用語の使い方的なことを。
例えば権力のことをお話しされてましたよね。これは僕たちの時代は「制度」という言い方をしてたんですよね。
1968年くらいにその変わり目があったかな、と僕は思うんですね。
日本語では「現代美術」、
アメリカでは「コンテンポラリーアート」という言い方をされるようになった時代です。
進藤さんが仰った権力のことって、社会的な構造が持っているものや歴史的なこと、それと美術的な制度上の中での権力。
そういう意味で、権力というのを制度と言い換えると、権力と向き合うっていうことは、僕には理解出来る。
それと、お話されていた本流と周辺、ローカリズムとは、日本の問題なのか、世界の潮流としての問題なのか?

進藤:
これはたぶん2つあって、美術についてはニューヨーク美術を本流、制度を作っている側としてみています。
もう1つ歴史の話をした時は、北海道史に対して日本史を本流としてみるってことをいいました。
今日の話で本流と言っていたのは教科書に書かれているようなことが起こっている場所っていう捉え方です。
本流と地方って日本だけの問題ではなくて、どこでも当てはまる可能性はあると思います。

山本:
本流って、対象にする受け手側が大多数設定だったり、文化の共有度にも関わるはず。
例えば現代美術において、僕が本など読んで勉強しやすかったのは、
MOMAが作った、印象派をどうアメリカが引き継いでモダニズムを作っていくのかっていう流れ。
これを割と美術史の本流だと思い込んでいたんですよね。それは日本とアメリカの関係もあると思う。
でもドイツの美術館とか、パリのポンピドゥセンターとか見ると、
ヨーロッパの美術のアイデンティティもちょっと強かったりして、
必ずしもアメリカ的な見方がすべてではないなって思ったんですね。
地域によって本流の設定が少しずつズレてて、しかも特に60年代以降っていろんな流れがあるから、
それを一本にはできない。
で、さらにちょっと意地悪なことを言いますが、美術作家をやっていたら、
進藤さんがローカルで覚悟してやっていても、誰かの強い力によってひとつの本流になっちゃう可能性すらある。
例えば進藤さんの作った作品を、超ビッグキュレーターが発見して、
実はそれがグッゲンハイムで日本美術史を作る企画展の人で、今それにもし誘われたら、引き受けるのか断るのか?
グッゲンハイムに誘われたら、引き受けたくなりませんか?
そうなると、美術作家をしている限り、グッゲンハイム中国展の出展作家と同じように、
自身も権力に組み込まれる、加担する可能性が、いつだってありますよね。

進藤:
うーん、引き受けないとは言えない…。自分がどんな展覧会に参加することになるかを理解しながらやると思う。でもそういう美術の権力構造の中でも、共感できたり、良心を感じたりする可能性ってあると思います。
例えば、ニューヨークのある新しいコマーシャルギャラリーで、9月の年度始めの気合いの入る展示で、売れることよりも、インスタレーションをしていた場所がありました。この展示はギャラリーのステートメントなんだとオーナーは言ってて、コマーシャルなのに、そこだけではない価値観で仕事をしているのは面白いと思いました。
他にも、キュレーターのスタジオビジットで私のような地域性が強い作品をサポートするような意見をもらうことがあったり。

山本:
そういう具体的な体験があったんですね。ひとことで「権力」と言っても、
その中には信頼できる小さな点が潜んでいることもあると。

進藤:
思うんですが権力って、パブリックとも関係していませんか?もし、権力の中に入っていかない場合、公の世界に背を向けてプライベートに自己満足の中でやる状況が一方でありそうな。。ここは、また別の話になってきそうだからここでやめますが。。

山本:
確かに公の世界ではそういう構造と向き合わざるを得ないですよね。どう折り合いをつけるかっていうのもまた、作家それぞれだと思います。


>>第5回[質疑応答 後編]に続く