naebono Talk 01 – 進藤冬華「アメリカ滞在報告 & 札幌で制作活動を続けること」-第5回[質疑応答 後編]


進藤冬華
「アメリカ滞在報告 & 札幌で制作活動を続けること」

聞き手:山本雄基

2018年1月7日

この対談は、2018年1月7日にnaebonoにて行ったトークイベント『進藤冬華「アメリカ滞在報告&札幌で制作活動を続けること」』の内容を元に、ウェブ用に新たに加筆・修正を加えたバージョンです。
全5回に分けて掲載します。


第5回[質疑応答 後編]

山本:
では次の質問は…

質問者3:
むかし進藤さんは大都市は大嫌いって言ってたのに、大都市に行ったんだなと(笑)。
それはでも、おもしろいなと思った。
本流と地方のことっていうのは僕らも若いころすごく考えていて。
学生の時なんか「東京コンプレックス」っていう展覧会もあったくらい(笑)。
そのくらい大都市にいかないと何かがない、遅れちゃいけないと思っていた。
ただ、今はそういう風に考えていない。
まず企画やアートマネジメントに関わっていると、教科書がないんだよね。
僕は今そういうことを大学で教えているけど、未だに教科書の使いようがない。
なぜかっていうと社会的な機構が違いすぎて、
ニューヨークでやったものも使えないし、行政とかスポンサーに求められることも違うし。
それで、その土地のものってそこにある材料でやるしかない。
次に、僕はもう企画はしなくなったけど、
今やっているレジデンスという長い歴史がある仕組みと考え方は、向こうから取り入れています。
取り入れられることと、そうでないことは、はっきりわかれている。
それからもう一つ、僕は幼稚園にも勤めていたんだけど、児童画の世界だとあんまり地域差がない。
障がい者や自閉症の作品世界も地域差がまったくない。少しずつ枠が大きくなってくると民族性がでてくる。
だからどこらへんに興味があるかでも、自分が住んでる場所の材料設定が変わるんだなあと思って。
そこを疑うっていうのは、すごくおもしろい経験。
自分の立ち位置がどこにあるのか、自分がどこの座標軸に位置しているのか。
その見解を広げるっていう体験、そういう話だったんだなと思ってすごくおもしろかった。

進藤:
確かにニューヨークに行く前は自分と全然ちぐはぐな場所かもしれないと思っていました。
ニューヨークと札幌の状況の違いはもちろん感じましたが、大都市に対するコンプレックスはないんです。
日本だと地方にたくさんのビエンナーレ、トリエンナーレがあるっていうのも関係しているのかもしれないですね。
あと確かに、帰ってきて例えばアーティストインスクールっていうプログラムをやってるところがありますけど、
そういう活動って小学校にアーティストを派遣してみたいなプログラムだから、
あまり本流とか地方ってことは関係なく、
どこでもできるよなあって思うようになったり。

山本:
ああ、それ!言い残してたことありましたね。
進藤さんが帰ってきてから改めて、札幌とか北海道内で今までやられていていたことのいくつかが、
すごい面白いことだったんだなって自覚したっていう話。
もう少し聞かせてください。

進藤:
帰ってきて、今まで身近すぎて見てるつもりになっていた活動が前よりもうちょっとよく見えるような気がしてて。
その中でアーティストインスクールの、藤木正則さんの活動。

藤木さんが小学校に行くんですけど、
学校の中をウロウロして観察しているうちに、学校教育の違和感みたいなものを見つけていくんだけど、
その違和感みたいなものって、下手すると教育制度を否定したりとか、先生に対する攻撃にとられるようなことだったりする。
たぶんそういう発見みたいなものが藤木さんの中にあって、
でもそこを、彼は無視しないで真摯に取り組もうとするんですよね。
それってすごい勇気のいることだし、私が同じ立場だったらそこに切り込んでいけるかどうかと思って、
そういう意味ではとても面白いっていうか、すごいなって思ったんですよね。

山本:
そのアプローチの仕方は、進藤さんの権力との向き合い方と、ある部分では重なるところがありますね。

進藤:
今のは例の一つで、他は今日は紹介だけにとどめておきますが
PARC
とか先日の「北海道写真とアーカイブ(pdf)」
なども、とても興味深い活動だと思います。

質問者3:
特に、公共性のあたりと、リアリティの話が面白かったし
公共性のくだりは、たぶん冬華ちゃんなりに一つの結論が出てて、
ああ、そこまでたどり着いたんだなと。とても印象深かったです。
で、山本君が最後に聞いた、クオリティっていうのをどう測っているの?っていう話について。
中国の作家の作品を見て感情的に盛り上がったっていう話で終わっちゃってたんだけど、
美術史の他の作家を無視しながら、自分だけの作品クオリティを高めるとか、
どこでオッケーを出すのかを、もうちょっと聞けたらなあと思って。

進藤:
自作のクオリティに関しては、ひねりとか驚きを感じさせるという意味では、全然高くないと思ってる。
例えばニューヨークに行ったり、東京にいたときも思ったことで、
こんなことどうやって思いつくんだろうって感じる作品が結構あって。
大きい都市って身近に話題を共有する人たちがいて、複数の人があるトピックについて作品を作ってて、それは複数の脳みそで一つのことを考えてるような感じです…。地方だと自分と同じような方向性の人が回りにいなくて、1人でやるから色々なオプションが出てこない感じがするんです。
だから都市環境で生まれてくる作品って、この意味ではクオリティが高くなるんじゃないでしょうか?
一方で北海道のことを暮らしながら制作することの特徴は、継続的に題材とする環境がある所じゃないかと思います。あまり同じ題材を扱う人がいないっていうのもあるのかも。それは、他の人との違いができますよね。それはクオリティとは違うかもしれないけど。
鑑賞者として考えると、作品を見ながら色々なことを考えることができる作品や、今までにない新しい体験がある作品もクオリティが高いって感じます。

山本:
なるほどなー。
例えば僕の場合は、ある程度やっぱり「絵画そのもの」としてのクオリティを目指すんですよね。
でもそういうことじゃないということですよね、進藤さんの場合。
モノとしてつくり込む作品もあるし、そうでないものもあるし。
だからその、これで良い作品だ、みたいな、とこっていうのは…。

進藤:
私の場合は、物や展示として作品のクオリティは、必然性がある時にやればいいし、
作品によってはそれが必要でない場合もある。
作品のクオリティってそこだけではないような。
コンセプト、プロセス全体として充実することが最終的なクオリティに繋がると言うか…。
誰かの作品から直接的に影響を受けたり、特に誰かの作品を意識して制作したりすることは多分少ないです。
それぞれのアーティストの能力や得意な事は違うと思うので、直接参考にならないように感じます。

質問者4:
テーマからして興味深くて楽しんでいました。
今の質問にも少しつながるんですけど、
ニューヨークで制作するひとたちが、美術史が必然的に日常にあって、自然になっているから、それを扱う。
で、それに対して進藤さんは、北海道で…っていう話だったと思うんですけど。
結局、誰がそれを見るのか?ということも僕はすごく重要だと思っていて。
例えばニューヨークでいわゆる美術史の本流が当たり前にあるってことは、
アーティストにとってもですけど、もっと美術にそんなに関わりのない人にとっても
やっぱり札幌とは全然違う状況があると思うんですよね。
進藤さんが札幌で、制作をするってことに関して、
北海道でいろんなことをテーマに引き込んでくるっていうのは必然性はあると思うんですよ。
それをじゃあ、どこに、だれに向けて発信するのか?っていうことが、
ニューヨークでやることと札幌でやることでは、どう変わっていくのかっていうのが聞けたらなあと。

進藤:
それに関しては、私は今ちょっと考えが変わったかもと思っています。
どこで、誰が見るかっていうとことも大事だけど、誰と一緒に仕事をして、
どんだけいいプロジェクト、制作をできるかってところにもっと集中したい。
そうすることで届く範囲って変化するのか試してみたいと思っています。
だから出来たものをどこに届かせるかっていうのを考えると…
それって、どんなギャラリーでやりたいか、どんな美術館で発表したいか、みたいなこと?

質問者4:
そういうのも含めて。札幌で進藤さんの望むシチュエーション、
発表するためのポジションを確保できるような、いや、できない可能性もあるじゃないですか。
なおかつ、美術館、美術の中だけに限らずに、
進藤さん個人のプロジェクトでありながらも、札幌に住みながら
ここで関わりながらそれが動いていくっていうのが、さっきのクオリティの話だとしたら、
クオリティをどれだけ共有できるのか?うーん、うまく説明できないですけど。

進藤:
ニューヨークにいたとき、よく私の作品の地域性をどうやって共有すればいいのか聞かれる事はありました。
私がニューヨークの美術の状況を共有できないと感じた事と同じように、地元の人からそういう反応があるのはもっともなことだと思う。
でも、ニューヨークで見た作品の中にも私は共感できたり、感動した作品もあるから、北海道の事を題材にしていても、
北海道以外の人と共有できることってあると思うんです。
例えばどこで誰に見せたいか調べて目標設定して、戦略的に考えることは、私には向いていない。
その目標設定をしてしまうと、シンプルに「良い作品を作る」っていう軸がぶれそうな気がします。

質問者1:
クオリティっていうより、価値判断。
それがやっぱり障壁になるっていったら変な言い方になるけど、
そういうことってあると思うんですよ。
クオリティって絶対的にはなりえないので、相対的なものだろうと私は思いますけど。
クオリティじゃなくて、別の角度で思ってらっしゃるのかなって。
それはプロジェクトみたいに、人とのコラボレーションとか交流とか。
ローカリティの話をさっきされてましたよね?
僕は同時代的な感覚も、アーティストっていうのは、あると思うんですよね。
それは結局、札幌にいても世界と同時的であるという感覚。思い込みかもしれないけどね。
たぶん進藤さんがプロジェクトのほうに向かって、
誰かとお互いに発信しながら、相乗的にいろんなことが起きていく。
進藤さんはそういう現象に興味があるんじゃないか。
その中で自分は北海道ネイティブではないけど北海道人である、という位置取りをしていくという。

進藤:
そうですね。同時代ってことで、地域とかを越えて、作品が共感されるなら本当に良いなと思います。

山本:
進藤さんは海外でも展示されてるじゃないですか。
で、それらの展示経験と比較して、例えば札幌で展示したときに、
全然手応えなかったわ~、みたいな無常感に包まれたことって、ないんですか?
そこに不満を持つとか。質問者4さん自身も、そういう経験があるってことですよね?

質問者4:
まあ、そうですね。要は、僕が今時間を置いて考えてることは、
結局、ニューヨークのいわゆる美術史の本流に巻き込まれてる人にとっては、当然のように、
美術の本流で発表することが、もちろん伝えるためにも共有するためにも
ベストだっていうことにはなる。

進藤:
うん、うん。

質問者4:
となると、進藤さんが北海道をベースにしてやるには、ニューヨークの本流で発表する必然性っていうのは、
そういう意味ではなくなってくる。じゃあそもそも美術のくくりから、外れていく必要性もでてくるのかなあと思って。
進藤さんの言わんとしている、プロジェクトをやるべき人間とやっていく中に、
もっと拡がりのある場が開けていくのかなあと聞いてて思いました。

進藤:
本流と地方で考えると、本流に住んでいなくても、そこで作品発表するオプションは地方のアーティストにとっても、
本流と言われてる場所にとっても必要であって欲しい。
でも現実として、ここ何年かはどこで誰に向けてっていうことで考えると、アーティストとして活動を続けることを優先して、やってきた。だからきた仕事はどこでも誰でもだいたい引き受けました。
その中でできた自分のネットワークとか新たにできた機会みたいのが私の発表や活動の場所を決めていると言えます。

作品発表の場所は、場所によって違う良さがあると思う。
美術ってことで言えば厳しく作品を見てもらえる場所や人のいる所でも発表したいですよ。
また、例えば北海道で展示だったら私の制作に関わるトピックがあるから、
美術ってことではなくて北海道っていうことで、面白い仕事ができる可能性があります。
一方で、これまで対馬とか平取とか地方で展示をした事もあるけど、
それは普段は体験できないような環境で作品を制作したり発表することで新たな発見もあって貴重な体験でした。

山本:
対馬や平取の経験って、ニューヨークに対して全く別種の、カウンターとしての強さになりそうですね。
逆にニューヨークのような大きな場所だと、共有できるトピックを発表できた時に、受け手の多さがメリットにもなりますよね。

進藤:
そうですね。
あとは例えば、博物館とか、美術関連の場所じゃない場所で展覧会とかは以前にもあるけど…。
私は作品の中で専門家でもないのにある物事について言及したり、
分野を横断して物事を眺めれる自由さってあると思ってて、
なおかつそれを美術展の枠のなかで公に発表できるって所に可能性を感じているから、もう少しその方法を試し続けたいです。

山本:
うん、うん。すいません僕もちょっと話していいですか。
若い頃は、こんなに考えて作品作って展示してるのに、
わかってくれる人が少ない!俺がやってることはそこじゃないんだ!みたいな憤りが、
札幌でやってるとどうしてもありました。
比較して言えば、ドイツとか台湾で展示してますけど、
そういう国外のほうが、作品の受容のされ方のバリエーションが豊富で、正直手応えもいい場合が多いです。
それは美術に慣れてるとか、大きな絵画の潮流を前提にしてくれるからだと思うんですよね。
で、じゃあ札幌の状況にいつまでも愚痴を言っている場合じゃないなと思って、
これは多分ドイツから帰国してからですけど、自分のせいだって思うようにしました。
札幌で僕がやったことに手応えがないのは、僕の作品力や説明や振る舞いとか、行動側に問題があるので、
自分発信でどれだけ行動への理解をしてもらえるか、っていう考え方にしていこうと思ってるんですよね。
だから、僕が自分で語れることはどんどん発信していくし、
そういうことを札幌ではもっと強くやらなきゃって思っている。
進藤さんが今回、いろんな人と体験を共有したいっていう意図でトークをやったわけじゃないですか。
その感覚がシンクロしたので、僕も今回司会をやって話し合おうと思ったし、
そういう場を作りたいんですよね。
で、こっから進藤さんへの意見と質問というか。
作品以外の、札幌にも美術のことを考える場を作りたい、みたいな感覚があるわけですよ。
もちろん、以前と比べれば環境は良くなってる。
飛行機が安くなって北海道外の人も来やすくなって、北海道外に移動しやすくなって。ネット環境も発達して。
企画する人もどんどんでてきたり、芸術祭もあったり。でもまだ何かできることがいっぱいあるような。
そこをついやりたくなっちゃうんですよね。
美術家が自分で場を作る必要ってのは、ここで活動してたらどっかで出てくる気がする。
でも、そうすると今度作品制作に集中できなくなって、作品もどんどん作らなきゃクオリティ下がるし、
その辺の作品を作るバランスと、札幌の美術っていう場を盛り上げる欲望のバランスを取るのが難しくて、
そういう考えの渦の中でnaebonoってのをみんなで作って、さあどうしようかって。
進藤さんって、そういうジレンマはありますか?

進藤:
活動をしている中で、思うようにならないもどかしさは札幌にいても、
ニューヨークにいても、別の場所でも色々な場面で起こることだから、
山本君が言うように自身の問題なんだと思います。
確かに、一緒に仕事ができる人や協力者には出会いたいと思っています。

札幌の美術の環境は良くなっているし、もっと…って思うこともあります。
ちなみに私が札幌にいるのは、郷土愛とか札幌愛でここにいるわけじゃなくて、
ここに作品の題材があるからとか家族がいるからなど物理的な理由が大きいです。
自分がいる環境は作品にも影響があると思うので、できる範囲で自分が今いる場所に貢献できればとは思います。
例えばnaebonoはその一つです。
新しくできたばかりなので今後どうなっていくかはわからないけど、場づくりや環境整備が進んでいく中で内輪だけの閉じた集団になってしまわないようにとは思っています。
私は場所やコミュニティにどっぷり属するよりも、いろんなコミュニティに触手が伸びている状態が、バランスのいい方法だなと思う。

山本:
なるほど。そうですね。あとnaebonoは制作スタジオベースなので、常にオープンでパブリックな場所ではない。
基本は良い作品を生み出す場所で、そこをベースにして、
できる範囲で発信もしていけるコミュニティではありたいですね。

進藤:
私も、制作のために入居しているのが一番です。
制作環境はスタジオを持つ前より良くなったと感じていて、場所がある事で集中できる事は良かったし、
今回のトークや入居者の作品について考えたりする機会は、
問題意識を共有しているこのスタジオのアーティストと徹底的にやれて、すごく嬉しいです。

山本:
これはもう、作家は作家でそれなりに真面目にやりますんで、皆さん協力してくださいみたいな感じで・・・今後もよろしくお願いします。

進藤:
て、言うの?みんなに(笑) 私も言いたい。皆さんご協力お願いします。

山本:
じゃあそろそろ時間も過ぎてしまっているので、
今日はトークをおひらきにしたいと思います。進藤さんありがとうございました。
皆さんもどうもありがとうございました。

進藤:
どうもありがとうございました。