Grafting -接ぎ木- アーティストトーク 第3回 クロストーク、質疑応答

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第3回 クロストーク、質疑応答

鈴木(雅):
ここからは、クロストークをしたいなと思っています。
クロストークは拝戸さんに仕切りをお願いします。

冒頭でもお話ししたんですけど、
僕の企画の動機である制作上の悩みだったりとか試行錯誤の中で今回の巡回展もあると思っているんですね。だから展覧会をがっちり作るっていうよりも、割ともう少しぼんやりとした中で展覧会を扱っているようなところがあります。前回瀬戸展のクロストークのときには拝戸さんが中心となって、「絵画」というものを一つの基準にしながら話を進めていきました。絵画における、イメージからアプローチするのか、物質からアプローチするのか、ていうところから、それぞれがどういう風に当てはまってくるのかと話を進めていったんだけど、今回同じ進め方をしていっても得るものが少ないのかなってことで、もうちょっと形を変えた切り口からトークしたいなと思っています。

僕が「接ぎ木」というシステムで強引に囲い込んで、みなさんの協力の元、展覧会が成立したということで、自分が、悩みや試行錯誤の中から得たものというか、瀬戸展をやって得たものとか、今回の展示に向けてどういう風に考えてきたのかってのを、はっきりこういうものとは言えないんですけど、拝戸さんにお任せする前に話しておいたほうがいいかなと思ったので、お話しておこうと思います。

僕が3名の作家さんに参加をお願いして、思ったのは、みんなすごい見えやすい形で、ルーツというか、その人自身の制作上の原点というか、一番大事な部分みたいなものが見えるなと思っていて。

例えば加藤くんだったら、材料への意識だったりとか、悠哉くんだったら、ドローイングってところが中心になってたりだとか、山本くんは今プロセスでも説明してくれたけど、透明層について考えてきたのかなって思って、それぞれこういうことについて考えてきて制作を続けてきたっていうことが、僕にはすごい見えやすい形だったんですよね。

で、そのなかで自分のことを振り返ると、今回出している作品は線と黒い背景があってというシンプルな作品なんですけど、元々自分の原点、ルーツみたいなところを辿っていくと、夜景、夜の風景を描いた作品を作っていまして。

前回のトークのときに、みなさんの作品の起点を今日みたいにお聞きしました。僕も話したんだけど、自分の起点てところが、展示作品の起点になっていて、自分自身の作品制作の起点ていうのを話してこなかったと思ってるんですよね。そこでみんなと僕との違いみたいなものを感じていて、前回の瀬戸展が終わって半年ぐらいなんですけど、その間にもう描かなくなっていた夜景の作品をまた描くようになってきていて、多分その原点のルーツのところからまだやれること、拾えることがあったのかな、と思うようになったことが得たものの一つだと思っています。

今回展示はしてないんですけど、夜景の作品持ってきたので、一応実物見てもらおうかなと思って、今日は持参しました。

 

鈴木雅明
Untitled
530×530㎜
oil on canvas
2019

今回出している作品とは違って、こういう感じの作品をずっと描いてました。
で、2011年頃でこれの行き詰まりを感じちゃって、描かなくなっていったというふうだったんですけど、また今年の瀬戸展後から、割と自然に、ちょっと夜景の絵を描いてみようかなとなって描くようになってきてます。今回の展示では出してないけど、瀬戸展後3枚くらい絵を仕上げてます。

僕はこの展覧会をやって、得たものはあったなと結構思っていて、こういうふうに過去のシリーズにまた向き合えるようになったってのもあるし、単純に少し元気になったっていうところもあるかな、と思っていて、そこだけちょっと話しておきたいなと思いました。じゃ、拝戸さんよろしくお願いします。

 

拝戸:
今の話に繋げるんですけど、私は、あいちトリエンナーレっていうイベントに関わっていました。今とても熱くなってますけども。それについてはトーク後に話してもいいんですが、今はちょっと触れません。

で、2010年に一回目のあいちトリエンナーレが終わった時にですね、まちなかの建物で美術作品を展示できるアートスペースを作ろうとしました。そこでシリーズで絵画のアーティストを紹介するという壁を設定しました。2011年のことです。

僕は鈴木雅明さんの先ほどの夜景、これは少し小さめですけども、もっと大きい夜景作品を数年前から見ていました。私としては、鈴木さんの作品をそこで展示したいと思って鈴木さんのところに行って、「夜景の作品を展示しませんか」とお願いしたら、「夜景の作品はもう展示しません」と見事に断られました。

「じゃあどういう作品を出したいんですか?」という話になったときに、「もう少しシンプルな明るい絵を描きたいんだ」ということを言われ、「じゃあその作品をラボ(※アートラボあいち)のほうで展示してください」というような形で、お付き合いがはじまりました。

このような経緯がありましたので、今、鈴木さんが夜景をもう一度観せてもいいんだ、出してもいいんだと思われているてのには、相当長い時間がかかった、のかな、と思います。2011年から8年間、鈴木さんは事あるごとに展覧会やってきたけれど、夜景は封印していて観せてこなかった。全く違うタイプの作品を発表しては、今回はこういう作品を出しているんですよ、っていう形で見せてきた、ていうことがありました。

半年前の瀬戸の展覧会でも、鈴木さんは夜景を出していなかったので、ここにきて鈴木さんが夜景を出してきて、観せてもいいっていうのはかなり大きな心の変化があったのかなという気はします。今回の鈴木さんが出している作品で、さっき非常に絵がシンプルになってます、ていう話がありましたが、僕は夜景の鈴木さんが少し戻って来たって感じがどこかにあって、明るい絵から、少し暗いグラデーションの中から光が浮かび上がるような作品を取り戻してきたっていう感じがしていました。

今回、私の中では、この4人の展覧会は、瀬戸展のときも言ったんですけど、やっぱりバラバラだと思うんですよね。所謂キュレーションってのをする時に、同じようなタイプの作家が出てくるんですけど、鈴木さんが接ぎ木しようとした人ってのは、どちらかというと全く自分とはタイプの違う人を選んできたっていうのがあって、そこがすごく不思議な感じがしました。

ただ、私が今回他の3人と話をしたときは、それぞれに出発点がちゃんとあって、それを頑固に守り続けて展開していく、3人がいるというところと、ずっと迷い続けてきた鈴木さんがいる、っていう関係性があるなと思いました。
鈴木さんってシェル美術賞を若い頃に20代のときに取って、非常に脚光を浴びて、私にとってはスターみたいな人だったんですけども、スターに頭を下げてお願いしに行ったら、出しませんっていう感じだったんですよ。

 

加藤:
それはスターですねえ。


会場:
(笑)

 

拝戸:
それが少し悩んだところで、もう一回原点に帰れるチャンスが作れたのかなっていう気はして、その原点に帰れるタイミングってのは、この3人が、原点から話をはじめる3人がいたからかなって感じがするんですけど。

 

鈴木(雅):
単純に3人とも、ちゃんとしているっていうか、すごいしっかりしてるんですよね。
話してても明確だし、やってることが明快だし、それが作品からちゃんと伝わっているていうか、僕もわかる形で、作品と言葉がリンクしていて、そういう作家が僕の周囲って、僕が思うに周りには少なかった気がしていて、だから札幌の方とか、岐阜の加藤くんとか、あえて声をかけて、こういう機会を自分は半ば強引に設定したのかなっていうふうに今考えてます。

 

加藤:
だから、あの~、悩みに付き合わされてるんですよね。

 

山本:
あはははは(笑)

 

加藤:
はじめに展示の話をくださったとき、すごく丁寧なメールが来るわけですよ。こうこうこういう理由で興味があって、話したい、と。こういうことを考えている、と。でもその段階で、なにがしたいとか、なにが言いたい、とか、こういうこと考えたい、とか、そういう狙いがはっきりしないまま、「なんか気になるから」、というようなことで、声をかけられて。すごい言葉悪いかもしれないですけど。

僕は、そういう状態の話だったら、作品を出しても出さなくてもどっちでもいいと思っていました。日々の制作はスタジオでやってるから、他の人が思い悩んでいても実制作に直接の影響はないんですよ。この展覧会の時に都合が合って、作品を持っていけるか、持っていけないかの話ですね。

でも、そんな緩い状態だったら、やってもやらなくても一緒だったら、やらないほうが楽じゃないですか。その日の制作をしたりとか、他のことやったりとか、楽しい事やったりとかした方がいいから。

で、やるっていう動機は、結局、雅明さんは考えたい事があると。何かわかんないけど気になると。雅明さん以外の3人はこういう面子だと。という状況で、考えていく、その鈴木さんの勘みたいなものが、なにか形を与えられたりとか、するプロセスに、鈴木さん自身がやるつもりがあるのであれば、僕は、「じゃあわかりました」っていうふうにお請けしたと思うんですよ。

今も、聞いてる方々も、付き合わされてる、と思うんですよ(笑)。

鈴木(雅)さんが、ゼロ年代とかに夜景を昔描いていて、それがどっかで行き詰まったみたいな状態があった、と。僕が鈴木(雅)さんにお聞きした話では「スタイルを変えていきたい」と思ってはいるけれど、しっくりこない時期、スランプみたいな状態があったわけですよね。そして、未だに分からないけれど、やむにやまれない気持ちがあって何かをやらなきゃならないっていう感じで、この展示のお話を、と。で、今元気になってる、と。悩んでいたはずの、夜景もなんか描けるようになったし。ということですよね。けれど、鈴木(雅)さん以外の3人(鈴木(悠)、山本、加藤)は多分やっていることを変えてないというか、今やっていることをそのまま展示に持ってきている。

 

鈴木(雅):
一番最初展覧会のオファーをするときも、接ぎ木展のためにこういう作品を出してくださいって事じゃなくて、普段の制作を見せてください、ってのはこの巡回展にも引き継がれていて、なので今回もどんな作品を出すっていうのは僕は一切関知していないし、皆さんそれぞれの判断で出していただいたし、僕はそれをまた見たいな、というところもあり、ということで。巡回するということへの、楽しみ、見たいっていうのは、山本くんからの提案ではあったけども、僕自身も巡回するなら何が見れるんだろうっていうのはありました。

 

山本:
僕もオファーを請けた側からとして、最初に、雅明くんはいろんな閉塞感を持っていらしたんですよね。
僕はそれを勝手に解釈したんですけど、ひとつは絵画っていうメディアへの閉塞感。もう一つ愛知の閉塞感それは愛知は特に画家が多くて、それだけである文化が成り立っているみたいな噂も聞いた事がありましたし、本人もちょっとそれは言っていて。
愛知の問題とかエリア的な事は僕にはあんまり関係ないって早い段階でご本人にも言ったんですけど、絵画が閉塞的になるっていう事については、僕にとっては餌みたいな話で。よっしゃ、そこをちょっと壊してやろう!と。閉塞感に向き合う問題意識から僕に声がかかったっていうのは、これは嬉しい。雅明くんの感じる閉塞感に対して、全然違うやりかたを今こそ見せられるんじゃないか、みたいなワクワク感で乗ってったっていうところがあるんですよね。

 

拝戸:
鈴木(悠哉)さんは、今回オファーを請けた時はどんな感じで反応されたんですか?

 

鈴木(悠):
えっと、まあ、同じように、愛知の閉塞感みたいなことを・・・

 

鈴木(雅):

最初はかなり!

 

鈴木(悠):

それがすごく印象的で。あと絵画、メディウムに関しての閉塞感を感じてるってことで。
でもメールを受けて、その文面からは結構わかる部分があるなあと。あと絵画の内外の問題というか、そのあたりが、自分も元々は絵画をやっていて、そこからどんどん版画とか色々なメディアに移っていった感じなんですけど、それで結構初期の段階で、絵画が自分向いていないというか、これをやり続けるのはかなり苦しいことだ、すごい閉塞感を伴う事だ、というのを分かった上で、今の自分のやり方に移っていったという経緯があったので、雅明くんが感じているようなモヤモヤていうのは、なんとなくわかったので、乗った、という感じです。

でも結構自分も迷いました。やるかどうかは結構迷って。
というのは、(自分の表現が)絵画ではないので、とは思っているので、それでもいいのかな?とは思いましたけど。

 

拝戸:
愛知の状況ってわかりにくいと思うんですけど、基本的に愛知はなぜか「絵画王国」って言われています。たとえば奈良美智さん、杉戸洋さん、小林孝亘さん、あるいは誰だろう、たくさん最近出てきて、東京のギャラリーからすると、なぜか名古屋あたりからいいペインターがたくさん出てくるね、みたいな感じがやっぱりあります。それがなんとなく下に伝わって、やっぱり愛知は絵画じゃなきゃダメなんだ、みたいな形になって、逆にそれが災いになって、絵画以外のメディアを持っている人間がどんどんやりにくいっていう状況になってしまっている。絵画自体が多分閉塞的なメディアであって、さらにそれをとりまく愛知の環境が閉塞的になってきたっていう状況がある中で、鈴木(雅)さんは作品を作られてきたので、よくわかると思うし。

でも鈴木(悠)さんは、名古屋の港区のほうのアートプロジェクトにも関わって、レジデンスもやられていました。絵画王国、絵画の閉塞感をなんとか覆したい、ていう動きっていうのは、愛知の中にあって、その中に鈴木(悠)さんも呼ばれて作品を作っていたりした、っていうのは実はありました。

そういう文脈なんですよ。

この閉塞感を壊さなきゃいけない、ていうのは美術館の関係者も随分思っています。だから鈴木(雅)さんの閉塞感もわかる。絵画自体が何らかの閉塞感をもったメディアだなっていうのはあるんですけども。

加藤さんっていうのは、まあ岐阜なのでちょっと愛知県とは微妙に違う位置にはいるんだけども、そういう閉塞感を感じた事があるかどうかは別として、絵画自体に閉塞感はない?

 

加藤:
ないですね。うん(笑)

 

拝戸:
、、、という、作り方をされているな、という感じはしますね。

 

加藤:
だからよくわかんないんですよ。「閉塞感がある」、「打破したい」ってけっこう人に言われるんですけど、
その閉塞感の正体がわかんなかったらトークのお話とかも断るんですよ。

だって他人が閉塞してて、それを無関係の僕が打破しなきゃいけない理由がわかんないし、打破する正体がわかんないし、そもそもそれが打破しなきゃいけないものなのかもわかんない。別にそのままでもいいんじゃないですかって思うし。その人たちが変わらなきゃいけなかったら、その当事者が自分で変わるべきでしょう。

問題の解決を外注して、言いづらい事を外部の人に言わせて、それでいっときの刺激があったら何かが変わった気分にになるけど、本人たちが変わる気がなかったら、結局変わんないですよ。

自分で変わんないと。もがいてみる。当事者たちから。今回雅明さんがそういう動きだったのかわからないですけど、閉塞感があって何か変えなきゃいけないから、何かわかんないけど誘うみたいな、、、

 

鈴木(雅):
ひとつ、僕が思ってるのは、確かに最初愛知県っていう言葉をオファーの段階で出したと思うんだけれど、結果的に愛知県っていう問題ではなくて、自分自身の問題っていうところのほうがしっくりくるなっていうことで、そういう言葉を、地域の話をしなくなったんですよね。進めていく中で。そういう話はやめようと思って。自分の問題として今回この展示をやってます。

 

加藤:
う~ん、、

 

拝戸:
そこに、みんな、巻き込まれたと。

 

加藤:
そう、ね、、、だから、、、、

 

拝戸:
だから鈴木さんみたいに若い頃にわーっと評判が、一応東京でも有名になって、
それである種の、まあトラウマじゃないんだけど、問題を抱え込むパターンってのは、やっぱり僕は若い作家にはあり得るかなって感じがあって。
絵を作る事って、20代で終わるわけじゃないから。鈴木さんは今40にかかってるころかな、

 

鈴木(雅):
38ですね。

 

拝戸:
これから絵をずっと続けていかなくちゃいけないっていう時に、
今のマーケットが割と若手の青田買いみたいなかたちでいい絵をっていうか目立つ絵をつくったりすると、そこにメディアがみんな飛びついて、紹介した作品を売って、海外に売りつけてっていう状況がまあ、一般的には僕はあると思います。
そういう状況って、なるべく避けたほうがいいような気も実はしていて、
誰にでも若い作家には起こりうるし、あまりいい経験ではないなって思いますね。
私はやっぱり、加藤さんみたいに、淡々っていっちゃいけないですけど、
スタジオで作ったものを、外に、非常にこう、ハードルなくパッと見せるっていう状況があるといいんじゃないかなって気はしてて。例えばそれが瀬戸の展示とここでの展示での違いで、
ここってスタジオに近い部分があるから、割とこう、鈴木(悠)さんも実験的なことができてるし、
加藤さんも本当に、直出しみたいな、本当に今やってることを出してきってできる環境になってるなっていう感じがします。

 

加藤:
そうですよね、展覧会っていうことを考える時に、「展覧会」を先立って考えてるわけじゃなくて、作りたい事とか考えたいこととか取り組みたいことがまずあって、それらが活動になったりとか、ある時は作品になり、ある時はトークになるかもしれないし、ある時は企画する側に加わることもあるし、勉強会しようっていうほうがいいかもしれないし、いろんなフォームがある中で、「展覧会」って制度的なもので、固定的なイメージがつきやすいフォームだから、展覧会のためにモノを作るっていうのが、未だに僕はよくわかんない。

でも、見やすい状態っていうのはあるだろうから、そういう状況に合わせたチューニングは、作るっていうのとはまた別にやる。作ったものをどうやって伝えたら、共有してみんなと一緒に考えたりとか、見たりとか、自分も観客みたいになって一緒に考えるとかって、そういうことをしやすい状態に、動線を作ることができるのかっていうことだけ考えるから。

 

拝戸:
ここにいるメンバーは、展覧会のために作る、のではなく、常に作り続けてるんですよね?

 

鈴木(雅):
僕はそうですね。(展覧会とは)関係なく作ってますね。

 

拝戸:
雅明くんもそうだし、悠哉君もそうだと思うんだけど、基本的には展覧会のために作ってるっていうよりは、どちらかというと、、、

 

鈴木(悠):
継続してますね。たまたま展示が繋がってるって感じなんですけど。

 

拝戸:
往々にして、展覧会のために作るとか、ショーのために作るっていうふうに考えがちになると、
どうしてもリズムが狂ってきて、ギャラリーのために作るところが難しいのかなって。決していい結果を、いい成長を生まない可能性もあるし、いい作品も生まない可能性もどうしても残るかなって気が僕はしています。
山本さんはどうですか?

 

山本:
僕は割と〆切に追われて作っている場合もあるんですけど、ギャラリーのショーとかフェアがあって。
でもギャラリーとの仕事が無くなろうがお金が無くなろうが、当然作りますよね。
結果的に今は、年間何作品くらい作れるかを逆算して、ギャラリーなどの展示の予定調整して、
作品作ってアトリエから無くなっていってまた作って無くなっていって、、、って感じになってますので、ノルマ枚数をフル稼働で用意する必要はあるけど、あくまで各ギャラリーと話し合いながら、描く内容は好きにやらせてもらえるような関係を作っています。
でも、最近絵の話してくれる人が減ってきてるような気がしてて、「今回はいくら売れたんだ?」とか。

 

会場: (笑)

 

加藤:
お金の話っすね。

 

山本:
そう、「おめでとう」みたいな話になって、それはそれでいいんだけど、
いや〜毎回そんな話だけを振られもなあ、っていうイライラがこう、、湧き上がってくることもあります。
ちゃんと、僕は僕なりに円と透明層だけやってるわけじゃなくて、そん中で問題意識があってアップデートしてるのに、
あんまりそこを見てもらえなくなっていく切なさもあって。強引に話を変えてくこともあるけど。

その辺、自分の中でバランスとりたいなあって思ってたところに、
このスタジオを運営するっていう話がやってきたりして、

ああ、ちゃんと美術の話ができる場を作る機会が天から降ってきたので、
話せる仲間と美術を動かしていこう、今大切なバランスはこれだ、と規定してたんですよね。

そんなタイミングでさらに雅明くんが、自腹を切って!自分の悩みからスタートして展覧会作るっていうのは、僕にとってはちょうどシンクロする感覚があった。

で、雅明くんが’(接ぎ木を企画して)瀬戸で体感したことを、僕も巡回で労力使ってみる事で追体験したいと思ったし、接ぎ木という言葉に乗っかって、この顔ぶれで引き続きどういう枝葉の拡がり方するのか観察してみたいっていう気持ちが、僕の制作の思考法に重なる部分もありました。

 

鈴木(雅):
僕が自分でやった立場だからかもしれないけど、やっぱりやらなきゃいけないと思うんですよね。
もちろん日々の制作はある中でそれはそうなんですけど、やっていかなきゃならないことというか、意識的に自分で動いていかないと、ある程度のところで閉じていくというか、そこで止まって滞留してしまうってことがあるのかなと思っていて。なので今回強引なやりかたではあったんですけど、一歩踏み込んでやってみたっていうのは自分にとっては大きかったですね。

 

拝戸:
最初に説明されたように、仲間に声をかけたわけじゃなくて、展覧会をやりたくてやったわけでもなくて、自分をこう、バージョンアップしたい、なんとかしたいって思いがあるので、
知らない、気になる作家に声をかけたっていうのはとても良いアプローチかなと思うし、いい展覧会になるために必要な要件かなという気はするんですね。

グループショーって同じ事を考えてる、同じような事をしてる人間の集まりになりがちな部分があるので、それが全然そうじゃなくて、全く関係がないひとたちを接ぎ木しちゃったっていうことって、

全く違うキュレーションのあり方って気がするので、みんな鈴木さんのためにやりましたって感じになってるかもしれないけど、結果としてはおもしろい展示になってるなという感じが私はしています。

そこらへん、、、悠哉さん、どうですか?

 

鈴木(悠):
そうですね、、、自分がおもしろいと思うのは、動きのほうで。
瀬戸でやって、それが札幌にっていう、動きのほうがおもしろいかなあと。
もちろん作品の変化もあるんですけど、実際的な地方と地方のあいだを動く、つながりができてくる感じが今回はいいなあと思った点です。

 

拝戸:
スタジオが持ってる良さ、っていうのもあるよね。

 

鈴木(雅):
前回の展示をやった場所も、スタジオ(タネリスタジオ)に併設したカフェギャラリーのスペースだったということもあって、そこの部分は近いものがあったのかもしれないです。
だから、無理がきくじゃないけれど、こういうこともできたし、今回も結果としてそれぞれの最前線の制作というか一番生の状態のものを見られる機会になったというのは、僕は良かったなという風に思ってます。

 

加藤:
作品を持ってきてるんですけど、「考えていることを持ってきてる」という感じなんですよ。
継続的に、「macaroni」っていうシリーズで、他のラインの作品は持ってこないようにはしたんですね。継続的に考えている、地続きで考えていることを持ってこようと。
作品はもちろんあるんですけど、今考えている事を持ってくることで、セッションの材料にしてるっていう意識でやっていて、それはそもそも、他の作家の皆さんがいてもいなくても普段からやってることだから、僕はずっと「接がないよ」って言ってたんですね。『接ぎ木』ってあなたが接いでこようが、僕から「接ぐ」気はないよっていうのは言っていて。

 

会場: (笑)

 

加藤:
「接ぐ」動機がない。けどまあ、どうなんだろうなあ。(展示が)良かったのか悪かったのか、僕判別つかないんですね、今。まあ、「作る」っていうことに関しては継続的に考えていて、動作のこと観察したりとか、材料のこと観察したりとか、ずっと地続きにやってきているから、そういうことをスタジオと併設したところでやることで、作り手という立場からから発信すること自体は、(企画に)乗れるところで。関係についてはよくわかんないけど、乗れるとこもあるから、、まあまあ。

 

山本:
とはいえ!とはいえねえ、僕は加藤くんと展示できて良かった。

 

会場: (笑)

 

加藤:
なんすか、それ(笑)
どういう方向にいくんですか。

 

山本:
いや結局、雅明くんが呼んでくれた3人っていうのは、バラバラとはいえ、
「絵画」っていう曖昧で、甘えやすい概念に、待ったをかけるようなスタンスを持ってる作家だと、
僕は勝手に思ってるんですよね、だからこそたぶん雅明くんに呼ばれたんだと思うし、
絵具でイメージをキャンバスの上に描きますよっていう感じでは、ないっていうか、
定義をもっとそこからズラしたいっていうか、そういう行為をしている3人が集められたと思って。
僕は僕でそういうアプローチをしてきたつもりですけど、
加藤くんなんかの作品はもう、出どころから全然、違う。
例えば同じ古典絵画についての話をしていても、
僕はイメージとか構成で見てるのに、加藤くんはモチーフと色材がどういう関係をもっているかっていう話をしてくる。
同じ絵画でこれだけ違う見方をしてる人が、まだいたんだ、みたいな発見がたくさんあったし、そういう発見を誘発しやすい展覧会にはなっているんじゃないか、少なくとも僕にはそういう風に思えたかなと。悠哉くんにしても、あれだけしつこく形を抽出して、立体にまで起こして絵具で塗ってるのに、絵画とは言えない何かになってるとか、ふわっとした絵画という理念に対して甘えの気持ちがない、そういう展覧会になっていると思います。

 

拝戸:
鈴木(雅)さんの分身としてこの3人がいる(笑)、実を言えばね、自分を分割していくと。
悠哉さんのようなドローイングがあって、加藤さんみたいないわゆる素材的なアプローチというか、執拗なフェティシズムといってもいいと思うんだけど、あと山本さんの透明感というか、夜景の中に現れる透明感、自分の作品のなかにあるものが、3つとも彼らによってそれをこう結集させて自分を統合させたいっていう気持ちがあるんじゃないかなって。だからこういう展覧会はやるべきだと思うし、他の3人も鈴木さんから学べることもあるだろうし、お互いに学べる事があるとおもうから、こういう討議を重ねて、学んでいくというか。
つまりこう、キュレーターが上からきて、集めて、編集して、紹介します、、じゃない形でやると、
全員がバージョンアップ、生なものを出して見せ合っていけるんじゃないかなという気がして、
いいんじゃないかなと思います。

 

鈴木(雅):
ありがとうございます。
瀬戸展の時とはまた違う内容のトークになって良かったかなと思います。
今回の展示でも得たものはあるので自分の作品にフィードバックさせていきたいなと。
何か、質問があるかたいらっしゃったら、どなたか。

 

質問者1:
最初に、雅明さんが語られてた、「違和感」っていうのが気になってて、
作品を拝見した時に、絵の中に、色彩を扱ってる面と、それ以外の光と、
モノクロですとか、無彩色のところには影がある、それと関係があるのかなと。
色彩のところにはあんまり立体がないんですよね。
光が当たって影ができるっていう法則じゃない色の面に見えてて、
床のモノクロのところには光が当たって影があるっていう風に見えた。
それと、違和感っていうのは、色彩に対することなのかなとなんとなく思ったんですけど。

 

鈴木(雅):
色への意識は、僕の中でたぶんちょっとあると思います。
影の出方でそこを調整してるっていうことではないけど、色の強さとか、配色のバランスなんかを考えることで、自分の違和感というものを再現するためのいち要素にはなってるかなと思います。

ただの塗られた色面であることと、絵に描かれてる実際の状況があるわけだから、
紙切れ、だけじゃない部分、例えば色彩の面からバランスをとってるところはあるかなと思います。
影のつけ方っていうところでも、でてるかもしれないですね。より色彩に目がいくように、影を小さく扱ったりだとか、でも全体の中の構造をわかってもらわなければダメなので、出してもいいところには影を多く設定するってことは、

すごく意図的にやってるかっていうよりも、割と無意識的な操作の中でそういう部分はあるかなと、今お話受けて思いました。

 

質問者2:

うまく質問できるかわかりませんが、山本さんに聞きたいことが。
7~8層目で、求めている理想の絵画空間ができるっていう話をさっきされてたんですけど、
一枚一枚に求めてる絵画空間があるのか、それとも自分のイデアみたいなものがあって、
いつもそれを目指しているのか、気になったのですが、教えてください。

 

山本

あー、、、割と一枚一枚ですね。

単純に言えば、目で簡単に追いきれない状況というか、本当に頑張って見れば追えるんだけど、
ぱっと見は全然わからない順序とかの逆転がある、みたいなのを成立させたいので、そこに向かっていく感じなんですけど。その複雑さをそもそもなぜ求めるのかと言われれば、、、何か理念はあるような気はしますね。だからどっちがっていう感じでもないのかも。

 

質問者2:

視覚的なものの中に、なんて言えばいいんだろう、難しいですね。
時間、とか、錯視、間違って見ちゃったり、気づいちゃったりというか、、、

 

山本:

そうですね、なんというか、滞空時間の長い絵を作りたい、とか思っていて。
僕は美術館とか行くと、一枚の絵で一時間見れるだろうとか、どれだけ作者の仕掛けた構造に気付けるかみたいな、挑戦をしかけられてるような気がしてくるんですよね。時間軸を超えて、200年前から挑戦をしかけられたとか、同時代のものから挑発されたとか、そういう挑戦を与える絵を描きたいと常に思ってて、それに必要な複雑さというのが、レイヤーとリンクしてるっていうのかな。時間を超越する多次元性を表出させたいという欲望は、全体通してあります。

 

質問者2:
ありがとうございます。

 

質問者3:
質問じゃないんですけど、全体の今日ここに来た感想でもよろしいですか。
私、今回案内状を手にして、こんなところができたんだなっていうのが素直な感想で。
それぞれの作家さんたちも、山本さんくらいしか知らなかったんですけど、もちろん興味があったし、
まずは、、、すごく良かったですね。

先ほども話しにでてたんですが、キュレーター目線で集まったんじゃなくて、作家さん同士のレベルでもってね、いろんなことがあったでしょうけども、こういうことになって、滅多にないですよこういう作家さんたちのリアルなトークっていうのは。それを間近に聞けたっていうことが、現代美術だからこそ起きてるっていうね、伝統的な絵画だったらこういう話はないでしょ、わかんないけれども。たぶんあまり起きないんじゃないかなと思いました。それぞれ皆さんの話ほんとに面白かった。こういう話を聞いてまた作品を見るとね、また違って見えるでしょうし、とにかく私にとっては印象的でした。このnaebonoっていうのは、最後シャレじゃないんだけど、「苗穂」ですよね、これからどんどん大きく実るんじゃないか、というエールの言葉で、締めさせていただきます。

 

会場: (笑)

 

鈴木(雅):
ありがたい(笑)

 

加藤:
じゃあ、もうよろしいですね(笑)

 

鈴木(雅)

時間もきてますので、ここまでにしたいと思います。
ありがとうございました。

 

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