naebono Talk 02 – naebono × S-AIR 共同企画[高橋喜代史&風間天心のレジデンスW帰国 座談会]-第1回


naebono × S-AIR 共同企画]
[高橋喜代史&風間天心のレジデンスW帰国 座談会

アーティスト: 高橋喜代史、風間天心
聞き手: 山本雄基(アーティスト、なえぼのアートスタジオ運営委員)
橘 匡子 (特定非営利活動法人S-AIR プログラム・ディレクター)

2018年4月6日

naebonoの入居団体であるNPO法人S-AIRの派遣により、同じく入居アーティストである高橋喜代史と風間天心が滞在制作を行い、その報告会が2018年3月21日に行われた。報告会では時間が限られていたことや、このレジデンスという機会を札幌を拠点とするアーティストとしてどう捉えているのか、naebonoの視点も交えさらに深く話を聞く機会として、アフター・トークを開催した。ここではその内容を全3回に分けて公開する。
※報告会は以下の滞在制作レポートをもとに行われた。レジデンスに焦点を当てた部分は、NPO法人S-AIRの活動報告書「S-AIR Exchange Programme 2017」およびエスエアブログにも掲載予定。掲載次第、リンク追加します。(https://sairblog.wordpress.com

▶滞在制作レポート
高橋喜代史 Le Lieu Unique/フランス・ナント
風間 天心 Sa Sa Art Projects/カンボジア・プノンペン


高橋作品の無意味性について

山本:
まずは高橋君の、ナント滞在中に発表した作品について話を進めてみましょう。

「Studio de Migration」2018

移住/移動するスタジオとして、展示期間の3日間、会場を転々と移動。写真、言葉、映像などからなるインスタレーション。ナントで撮影した映像作品は展示作品の一部がナント市内を移動する映像。
>>https://kiyoshit.exblog.jp/28163485/

山本:
この作品について、高橋君は先日の報告会の中で、
「作品の一部に[移民じゃなくなるのはいつ?]という文章を作品で提示したら、移民についての質問しかされなくてモヤモヤした」というコメントをしました。そうしたら会場全体がざわついて疑問質問が次々に出てきた。どういう反応が欲しかったの!?とか、そりゃあその質問はされるでしょう!とか。僕もびっくりしました(笑)。ご本人としては、移民自体の話ばかりではなくて、それ含めた作品全体のリアクションも欲しかったという意味だったとのことでしたが。だから、ここを起点に考えていきたい。

橘:
高橋さんは、向こうの人たちとどういう話をしたのか?

高橋:
フランスで作品作る上で、いろんな人を紹介してもらって、その人たちからどういう作品を作っているのか?どういうテーマなのか聞かれた。作品の映像とか渡したら、難民とかもテーマにされてるんですね、みたいな話に。でかなり複雑な出自の移民の人などもいるけど、それぞれの経験を話す、ていう流れに自然となっていった。

橘:
具体的には?

高橋:
一番印象的だったのは、フランス人で日本に暮らしたことがあって、また日本に戻りたいと言っていたDさん。僕の質問「移民じゃなくなるのはいつ?」ということの話にもけっこう直接的に関わってくるところなんだけど。Dさんは「僕は日本に住みたいけど、やっぱり日本に住むのはものすごく難しい。いろいろ納得いかないことはあるけど、結婚したりなんだりすると住みやすい」と。でも、選挙権の話になって、「国政選挙はもういい、諦める。それはもう日本で求めても多分無理だろう」と。でも、「地方選挙の選挙権は欲しい」という話になっていって、それは納得できたんだよね。「ぼくは町内の集まりにも行くし、地域のことも考えるし、活動しているのに選挙権がないのは、僕は納得いかないんだ」という話をしていて。それは「移民じゃなくなるのはいつ?」ということに対する一つのDさんの考えというか。別に今回の作品に対応したわけじゃなくて、自分の気持ちを言っただけなんだけど、選挙権というのは一つ、移民じゃなくなるポイントなのかなとはちょっと思った。それは話をしていて。結構ぼくの今回の一番の大きな収穫の一つだったかなと思っています。選挙というものが別の形で自分の中に浮かび上がって来たから。

橘:
その「移民がいつ移民じゃなくなるのか?」という質問は「私が」ってことなんですか? それとも「難民が」?それとも、「移住した人がいつ移民ではなくなっていくのか」?。

高橋:
今回は「私」と「移住した人」。

山本:
移民であれば、日本にも、身近なところにもいますよね。

高橋:
まず、僕がどうなのかというところはあったよね。北海道に住んでいる僕らは移民なのか?侵略者の子孫なのか?とか。

風間:
突き詰めていくと誰が移民か、てすごく曖昧。言ってしまえば、全員移民といえば、移民ですよね。

高橋:
北海道は特に、言えるじゃない?

山本:
今聞いてて初めて「あ、これは高橋君自身の話でもあったんだ」と思った。「自分が移民じゃなくなるのはいつ?」というニュアンスは報告会では気付かなかった。それって普段から北海道でも認識しているのか、フランスに行っている時だけ認識していたのか?

高橋:
やっぱりフランスに行って移民ということを考えたこと、向こうのディレクターと話していて出てきた。自分自身で考えたときには、まったく移民感というのはないんだけど。それってそんな簡単に言っていいのかな、みたいな。我が物顔で住んでいる僕が、例えばアイヌの人を目の前にそれってそんなに簡単に言えることなのかな?と。

風間:
移民という問題と僕は自分のテーマにも関わってくるんですけど、要は日本人というものを考えたときに、移民というか、外部との距離感が世界の中だと特殊な人たちだと思ってるんですよ。移民というものにもすごく鈍感だと思うんですよね。多分「難民」と「移民」の区別がついていない人もいるんだと思う。
もう一つ。話をひっくり返すようですけど、そのことを高橋さんに対して掘り下げていっても、果たしてどうなのかというのがあって。「移民」で掘り下げるのはいいんですけど、そこを掘り下げていったところに本当に高橋さんの表現の本質はあるのかなっていう疑問があります・・・。

山本:
高橋君の今までの作品展開を見ていると、テーマとなる事柄を深堀りするのではなく、問題意識はありながら自分自身は無知状態とか自覚の遠さをキープしたままでいることが重要な点なんですかね?その時その時の解決しようがないトピックをとりあげて、瞬間芸みたいな無邪気さをそのままの鮮度でいかに出すか?というのが実は肝なんじゃないか。

高橋:
その仮説はほぼ正しくて、深堀りしないことについては意図的。結論から先に言うと、まだ的確な言葉や表現が見つかっていないんだけど、僕は「無意味なもの」を作りたいんです。なので、イシューに対しては、素人的な視点と立場でいい。その立場でしか言えないこともあると思うので。

橘:
でもほら、作品を通して、議論が起こるような作品を作りたいみたいなことも言ってましたよね?

高橋:
作品が、議論を呼ぶきっかけというかそういう土壌になったら良いと思っています。

橘:
だけど、それはフランスでもこっちでも、実際に話しているのかな?
なんか会話としてボールを投げても、空振りという感はありますね。。

風間:
そうそう、高橋さんは場はめっちゃ作るんですよね。でも、その場を作っても本人はけっこう居ない、みたいな。「空気を作る」力があると思うんですよ、やっぱり。何か論点はずれてても、というか・・・キャッチボールになっていなくても、そこの影響力があるというのは、それは一つのスタンスかなと、思うんですよね。

山本:
それで実際結果も残してますからねえ。

風間:
僕の中で思うアーティストって「言わなくて良いことは言わないべきだ」という思いもあるんですよ。今の話の流れだとそれが、高橋さんにとってある気がして。

高橋:
あるか、ない、・・・ない(笑)。

橘:
あの、掴みどころがないんですよ。

山本:
結局深堀りしないってことなら、本人にとってのコミュニケーションというのは、どういうフィードバックがあるのかな?

橘:
今回においては移民について、そういう場を発生させて、それについての何かを皆が話したりするような・・・。それは発生して欲しいんですよね? 自分がその中にいるかどうかは別として。

高橋:
それで言うと、発生してほしいが、あまりに移民の話にしかならないと、寂しい。

橘:
そこがよくわかんないな。

山本:
結果的に、作品じゃなくて設定テーマ自体の質問ばっかりになったっていう。

高橋:
そこが、トークの時にざわついたあたりだよね(笑)。最初に立ち戻ってるけど。

風間:
結局無意味だと思うんですよ。無意味というつかみどころのないものを、要はある種具現化して作品にしている訳じゃないですか。それってけっこう矛盾していると思うんですけど。そこは、どう捉えているのかなというのが気になるんですよ。

高橋:
最近「深い作品って何だろう」「深い作品をつくるにはどうすればいいのだろう?」
ってよく考えていて、作家に何かしらの思想や哲学はなくても、作品や状況をつくることってできないのかな?とか考えていて。難民という象徴的な起点があって、長い看板を持つという無意味な行為が行われる。

「signal」2017

>>https://kiyoshit.exblog.jp/27114696/

象徴されたものと無意味な行為は遠く離れているんだけど、ある意味、僕の中では重なっている。外側はあるし。表面もあるし。器はある。テーマもモチーフもある。でも意味というか中身はない。だからといって、薄っぺらな無意味さではなく、豊かな無意味さをつくりたい。多様な意見の土壌となるような作品が作りたいんだけど、自分の作品には答えのような意見は内包されてない。意味ないけど意味ある、意味あるけど意味ない。そのような世界観を持った作品をつくりたいなと。

山本:
「無意味」って漠然としたマジックワードだから、もうちょっと具体性が欲しいなあ。
美術をやる以上その「無意味性」に向かおうとすることは、僕にとっても特別なことではなくて、美術をやることそのものが無意味に関わる行為とも言えて。
「意味から逃げ続けられる」という要素をいい作品の条件の一つとして僕も想定しています。どれだけ時が経っても意味のタグ付けが完了できない魅力は、僕が美術に求めていることでもあるし。人が生きている、死に向かうことに、そもそも意味があるのか?って考えると、僕は無意味だと思います。これは生きていることが自発的ではないから。だから生きる意味を求めちゃう。意味の普遍が多重に重なっているのが社会で、美術もまた社会の一部として自然発生する概念だと考えています。
それと、人の認識という領域を取ってしまえば、世界に存在する全てのものが無意味になるんじゃないか。あくまで社会の中で、美術は人の自発的な行為でありながら、簡単に意味を語らせないという点で機能するものだと僕は思っていて、その前提で作品を作っています。人が合理的な存在でないので、非合理的な面を引き受ける領域とか、まだ普遍化されていない概念が社会に必ず現れる。その一つが「無意味なもの」としての美術とは言えるかも。

高橋:
自分のイメージとしては、テーブルがあって、その上に議題や問いがのっている。しかし、そのテーブルに僕の考えがのってるわけではない。それでも成立する状態を求めている。なぜなら、それが僕だから。中身なんてない。言いたいこともない。でも何かを作りたい。残したい。話をしたい。空っぽだけど問題意識のあるテーブルを作りたいし、考えたい。そんな空っぽな僕でも成立しうるかどうかの、実験をしている。その実験のフィールドとして美術は自分にとって最適だった。意味から逃れている人や作品があり、自由な場所に思えた。見えた。

山本:
んー、なるほど。「自分がからっぽ」ってのをあえてキープし続けるってとこは不思議ですが、そこに知らないことに対する謙虚さや敬意が隠れてることがポイントな気がする。

風間:
今の流れでぼくが聞きたくなったのは、高橋喜代史というアーティストをどう捉えて欲しいと思っているんですかね。

高橋:
GREATでしょ、GREAT!

一同:
(笑)

風間:
結局、深堀りしきらないとか、無意味さを出すとかって、全部高橋さんの中で成立させていってることだとは思うんですよ。ただ、それを誰か高橋喜代史というアーティストについて何かを書こうと思ったときにどういう切り口になるのかということを、高橋さん自身は望んでいるのか、イメージしているのかというのはちょっと聞きたいんですよね。なんかそれがないと、結局は形作られないと思うんですよ。いくら高橋さんが無意味を追求していっても。

高橋:
多分みんな同じだと思うけど、想定していることからはみ出して書いてほしいってのは当然だとして、じゃあどういう内容を的確にコメントしてほしいのかなと思うと、・・・難しいよねえ。無意味の定義だったり、僕がなぜその無意味に向かっているのか、というところも明確にしていかないと。

山本:
思ったのは、ナントという異国の地で設定したテーマが、無意味とは逆に想像を超える強い意味を持ってしまったということ。日本国内での共通認識感とか空気、国民感情などの前提に寄りかかれなくなった際に、高橋君の言う無意味を発生させるためのテーマの見せ方を、別思考で用意しなければならない難しさが見えた気がします。国が変わることで無意味の意味も変わるという体験は、無意味への解釈を深める上で貴重な体験だったようにも見えました。

高橋:
正直、フランスは苦戦した。なので、今後は国内で作った作品を見てもらうか、滞在時間を長くしたり何度か通うかして、極上の無意味さを発生させたいと思った。今回は、自分の課題を発見できたところでタイムアップ。海外での滞在制作については今後の課題だけど、課題は作品の幅を広げる可能性でもある。

山本:
じゃあ、そろそろ高橋君のターンから一旦、天心さんのターンに移ります。