naebono Talk 02 – naebono × S-AIR 共同企画[高橋喜代史&風間天心のレジデンスW帰国 座談会]-第2回


naebono × S-AIR 共同企画]
[高橋喜代史&風間天心のレジデンスW帰国 座談会

アーティスト: 高橋喜代史、風間天心
聞き手: 山本雄基(アーティスト、なえぼのアートスタジオ運営委員)
橘 匡子 (特定非営利活動法人S-AIR プログラム・ディレクター)

2018年4月6日

naebonoの入居団体であるNPO法人S-AIRの派遣により、同じく入居アーティストである高橋喜代史と風間天心が滞在制作を行い、その報告会が2018年3月21日に行われた。報告会では時間が限られていたことや、このレジデンスという機会を札幌を拠点とするアーティストとしてどう捉えているのか、naebonoの視点も交えさらに深く話を聞く機会として、アフター・トークを開催した。ここではその内容を全3回に分けて公開する。
※報告会は以下の滞在報告をもとに行われた。レジデンスに焦点を当てた部分は、NPO法人S-AIRの活動報告書「S-AIR Exchange Programme 2017」およびエスエアブログにも掲載予定。掲載次第、リンク追加します。(https://sairblog.wordpress.com

▶滞在制作レポート
高橋喜代史 Le Lieu Unique/フランス・ナント
風間 天心 Sa Sa Art Projects/カンボジア・プノンペン


風間天心が向き合う「信仰」について

橘:
過去のフランス滞在中にも、お坊さんの格好で巡礼を行ったじゃないですか? その際のテーマも「信仰」でしたよね。

「The Distance」2014
撮影:Lukasz Gasiorowski

「The Distance」2014

カトリックの巡礼道1660kmを托鉢によって踏破するプロジェクト。
http://www.tengshing-k.com/works/distance/

今回のカンボジアも「信仰」というテーマを掲げていましたが、どのような心構えの違いがありましたか?

風間:
フランスの場合カトリックの国だったので、明らかに「他者」として関わることになるだろうな、という意識はありました。巡礼を行う際も「他者」としてどう受け止められるのかに重きがあったんですが、今回は同じ仏教国やアジアという事もあって、はじめから身内感を想定していたということでは、向き合い方が違っていたかと思います。

橘:
フランスの時はアプローチの仕方もカメラマンやライターが同行した「歩く」行為であったのに対し、今回はもっとドライにアンケートという形を取ったことには何か違いがあったんでしょうか?

アンケート

風間:
まず、前回の巡礼プロジェクトのきっかけになっているのは震災なんです。震災直後の日本を離れて眺められたことで、いかに日本人が特殊な民族であるのかを知ることができました。その特殊な民族が、信仰も文化も、全くバックボーンの違う土地を旅路で出会った人々に助けられながら歩くことで、どんな反応が生まれるのか。それを感じたくて、とりあえず歩き出したというのが前回のプロジェクトです。それに対し、今回は「信仰」に対する自分の切り口が、もう少し明確になっていました。しばらく自分の中で「宗教」というものをテーマにおいていたんですが、その後のイスラム国の問題などを受け止めながらも、考えるほどに「宗教」という切り口が掴み所のない言葉に思えてきたんです。それよりも人間一人一人が、自分自身が、実際にどんなことを信じているのか。何を行動基準にしているのか。そこに関心の矛先があることに気づき始めました。だから「宗教」という言葉で規定される「仏教」「イスラム教」といった分類には関心がなくなり、むしろ個々が具体的にどんな「信仰」を抱いているのかを知りたくなったんです。なおかつ今回は、宗教という分類で言えば同じ「仏教」の国でしたが、個々の「信仰」に焦点を絞って行けばもっと詳細な違いが見えてくるのではないかという期待を持ってのぞみました。

山本:
天心さんは僧侶だから仏教!ってつい先入観で考えてしまいそうになりますが、話を聞いている限りでは、いわゆる一般的な仏教信仰に対する感覚とはズレがあるように思えました。天心さんの信仰心というのは、どこにあるんでしょうか?

風間:
僕が仏教徒であろうとする理由は、「疑う宗教」だと思っているからです。基本的な宗教の捉えられ方は「信じるもの」だと思うんですが、僕が欲している仏教は「疑え!」というスタンスです。「全て疑っていけ!」というのが僕にとっての仏教の良さなんです。そして信仰というものを語るときに、何かの宗教に明確に属しているということも、説得力を持つための大事な立ち位置だとも思っています。もちろん宗教から離れたところから見る視点も一つ大切ですが、僕の場合は自分が僧侶でありながら、自身の立場を規定している「宗教」や「信仰」と言う概念に内側からメスをれていく。それは自分だからこそできることだと思っています。

山本:
「疑う」について、もうちょっと掘り下げて聞きたいです。

風間:
疑うって言うとあまり良い表現に聞こえないのですが、もっと精度を上げて物事を捉えようというつもりなんです。「〇〇はこう言われてます。」の先に「でも、この点はどうなの?」というように掘り下げて考えたいんです。いわゆる弁証法的な、反証を繰り返して、結論の精度を上げていく。その点から見ると、宗教よりもアートの方が、その精度を高める仕組みが整っている気はします。でも「仏教も本来、それぐらいの精度をもって物事に向き合ってきたはず」という想いも交錯しています。

山本:
そうすると、天心さんの思考自体「疑う」と言うことがベースになってきますよね。それと美術というのはイコールと考えていいんですか?

風間:
僕の中ではイコールになってますね。美術の良いところは、規定された物事を飛び越える力を持っているところ。物事を疑う視点を持つと、どれだけのものに規定されているかが見えてきます。宗教は案外たくさんの規定の中におさまっている。僕にとっての「アート」は、人間には規定しきれない物事を対象にしているんです。

高橋:
アーティストも同じようにアートを疑ってるのかな?

風間:
そこなんですよ。実はアーティストもある種の信仰を持っていると思っています。ざっくり言えば「アート」という信仰を持っている。それこそクオリティの話になってくるんですが、アーティストが他のアーティストを評価するとき、良いアーティスト、イマイチのアーティスト、これって割とハッキリ分かれると思うんですよ。でもそれってどういう基準ってなったら、そこは言葉にできないことが多い気がするんです。

山本:
クオリティについては僕は「信仰」じゃないと思う。クオリティの見極めは、どっちかと言えば、鍛錬して見えてくるものだとも思うんですよ。それは目利きの領域で、ある基準は存在しているんじゃないかな。確かに明言化できない以上、定義付けは個々の言葉になってしまうけど。前提としてそれぞれが自分の評価軸を作って、お互いが、アイツいい目をしてる、してない、みたいな合意の読み合いが起こる。だからクオリティについては信仰というニュアンスとはちょっと違う気がしてます。

風間:
そう言いたいのはわかるんですけど、信じている人ほど、相手からそこを分析されるのは嫌うので。「私、信じてる」って言う人が本当に信仰が強いかっていうと、そんなことはなくて。「これは信仰じゃない」って言う時の方が、逆に信仰が強いんじゃないかって思ってるんです。僕はアートが持っている信仰を崩したいんではなくて、そうであるということをもう少し見ていきたい。僕の中での仮定なんです。「アートにも信仰がある」っていう仮説。僕はアーティストが100人いたら、100通りの良いがあるべきだと思ってて、100通りのままにさせて置けるのがアートの良いところだと思ってるんです。ただ、場合によって80が同じものになっていることがある気がする。80が同じものになった時に、残りのバラバラの20が肩身狭くなるっていう状況はあり得ますよね?そういうところを見ている感じなんですよね。

橘:
それが「西欧の文脈」ってことなんですか?

風間:それもありますね。それこそ教育っていうのが大きくあって、それ(西欧の文脈)が前提にあるのはまず認めなきゃいけないなって。もちろんそこから逃れようとする人もいるし、実際逃れられているアーティストもいるかもしれないけれども、アーティストを名乗る限り無意識のレベルで西欧の文脈があるっていうところから始めたいんですよ。そのためにはアートに染まらない立場でいたい。それが僧侶というポジションを抱えている理由でもあるんです。どうしても、アートの外側の立ち位置も持っていたい。そうしないと「うねり」は俯瞰できないっていう意識があって。

僧侶という立場を生かしながら、アーティスト活動をする理由

山本:
報告会の時に、フリップに上がっていたけど時間切れになってしまった「宗教ー美術ー経済」という切り口についても聞きたいです。

風間:
そもそも僕が僧侶という立場を生かしながらアーティスト活動をするのには、二つの理由があります。一つは、一表現者、一人間としての思想的理由。アートが捉える射程は限りなく広いはずだけど、現状では限られた世界で限られた議論しか行われていない。マニアックな人だけで掘り下げられることがあるなら、とことんやるべきだと思っています。ただ、僕はアートのコアな議論て今あんまり興味がないんですよね。

橘:
いわゆる、「アートのためのアート」には興味がない?

風間:
そうですね。だから、僕が向いてるのはむしろアートの外なんですよね。例えば「科学者」とか。もちろん「聖職者」とか。僕の関心はむしろ、その他分野交流の中でどんな議論ができるか、に重心がある。だけど立ち位置は現代アートにあるから、外側から見たら僕が現代美術の窓口になりやすい。外に向いているだけに、いろんな人に現代アーティストとして出会うことが多い。だから説明しなきゃならないタイミングが多くなる。その時に「現代美術」をどう説明していいか、僕の中では見つけられていない。僕の中にはある種の定義があるんですが、外側に対して現代美術っていうものを捉えてもらうための定義ができていない。

山本:
僕は教科書的な現代美術観はある程度、踏襲してます。
教科書的な美術と、それとは完全には一致しない自分の美術の軸の2軸あるんですよ。自分の考える美術の軸を教科書的な美術軸で補完しながらちゃんと語れれば、まぁオッケーというか。
その、外側に対しての定義は、必要性のあることなんですか?

風間:
僕にとってはあるんです。僕は巻き込みたいから、お坊さんたちを。例えば具体的な希望として、お坊さんのキュレーターが生まれてほしい。日本のアートが抱えてる問題と、お寺が抱えている問題が、ある意味で補完しあえる気がしてるんです。うまくいけば。それこそ社会的な信用度の違いとか、経済的な安定感の違いもそうだし、お互いどこか欠けてると思ってるので。そういう誰からも求められていない問題意識を持っている自覚はあります。
僕はね、なんかそういうこともやらないと気が済まないんですよ。要は自分がやりやすい土壌を作るっていう理由でもあるんですけど。そのためには、アーティストだけが語る現代美術じゃない方がいいんです。そして、僕が僧侶という立場を生かしながらアーティスト活動をする2つ目の理由がここにあるのですが、宗教界とアート業界を繋げて、それぞれの社会的価値から経済的資産まで補完しあえる関係にしたいという実務的な目論見があります。「もしも東洋主体のアート文脈があるとしたら、仏像や寺院以外にたどりようがない」、「お寺業界は葬式に頼らない新たな価値を探していて、そこにアートがハマるかもしれない」、「かつて寺社が担ってきた文化保全の役割を新たな形でつくりあげられるかもしれない」。正直なところ、いずれも長期的展望なため、未だ手探りの状態です。上記のような目的を持ちつつ、何かヒントを探してカンボジアへ赴いたというのが現状ですね。
一つこれからリサーチを深めていきたい点は、「信仰の厚い仏教国ほど、経済的に不安定な状態にある国が多い」という点です。資本主義的な経済発展はどんどんスピード感を強めていきますが、多くの場合、その過程において思想的な熟議を置き去りにします。日本が一つの例で、異常なスピード感で経済的成長を遂げた結果、思想的な成熟度が追いついていない。これはアートの成熟度も同様です。特に日本の現代アートはその多くを西洋的文脈に頼ってきたため、未だに日本独自の文脈を模索している現状があります。カンボジアや東南アジアは、このスピードが増していく真っ只中にあるため、それらと関わることは改めて「資本主義的発展を遂げた日本で西欧由来の現代美術を行うこと」を見つめ直す機会になるのではないかと思っています。「もしかしたら、その急激な資本主義的スピード感に歯止めをかけているのが、宗教的な信仰なのではないか」という仮説を立てています。であるならば、資本主義と対立する「ある種の信仰」が経済的発展のスピードを鈍化させ、結果的にはバランスの良い社会成熟度を得られるのではないか。

橘:
天心さんが考える「バランスの良い社会成熟度」って、どんなものですか?

風間:
「経済」という広い考え方においては、むしろ「宗教的な信仰」が経済を支えている社会もありますよね。僕が想定できうる「バランスの良い社会成熟度」は、「ローカルの文脈を破壊せず、なおかつ物理的/心理的、両面の豊かさを個人それぞれが尊重しあえる社会」です。かいつまんで言えば「人間の感情」を起点に考えられる社会です。

山本:
経済的に成功してる人って、実は信仰深い人が多いって聞いたことがあります。

風間:
今に始まったことではありませんが、その傾向は非常に強いと思います。一定の経済的安定を持った方ほど「社会貢献」を望んでいることと、長い世代において経済的安定を保っている家柄いわゆるエリートは、その安定が続いていることへの「感謝」を強く持っています。「この成功は自らの力だけではない」と、謙虚さが大切であることを知っているからです。その世間への「感謝」が「厚い信仰」となり「多くの寄付」へと繋がります。それが日本の伝統文化を守ってきたと言っても過言ではありません。そしてここからが大切なのですが、その大局的な思想を持つことのできる人物が少なくなっている。それには「慢性的な信仰心の薄れ」が大きく影響しています。つまり「アート」を支える背景には必ず「信仰」が関わってくるのだと感じています。誤解してほしくないのは、僕は基本的に宗教の「システム」を疑っているので、ただ「信仰心を復興させたい」のではありません。これまでの「宗教的信仰」に代わる「アートを支える思想」をどのように育むかに関心があります。

山本:
今までの話、複数のラインが天心さんの大きな美術観を表現するためにあるように思えました。一つは「疑う」っていう態度を作家思想として詰めていくっていう基本的な思想。
一つは、そこからお寺業界と現代美術の世界を融合させて行くっていうライン。

風間:
そうですね、それが僧侶とアーティストの二つを結びつけてるっていう。

山本:
その他にも、モノとしての作品を作ってますよね。例えば今回カンボジアでも制作してきた水引のシリーズ。大元のコンセプトは「信仰」と「美術」で一致してると思うんですけど。水引っていう、宗教的な「間」みたいな領域をわかりやすく提示できるモチーフの引っ張り方で、ほぼ絵画みたいな状態で見せてるじゃないですか。あれは造形作家的な路線だと思うんですよ。で、天心さんはその軸で販売を念頭に置いた靴なども作ってますし。

「Surfaith」2018

カンボジアで寺院に奉納される敷物。その素材である「い草」を用いて、滞在中に制作した平面作品。
http://www.tengshing-k.com/2018/06/surfaith/

風間:
水引をモチーフとした動機はまず、宗教というテーマを扱う際にちょうど良い素材だったことですね。日本人にはある時期から宗教アレルギーが強くあって、宗教を直接的に扱った作品は発表できないことがある。その状況下で、日常的に扱われている民芸にたどり着いたんです。民芸は民間芸術の略ですが、生活に密着した土着の「信仰」が反映されていますから。その延長線上でカンボジアでも、お寺に奉納される民芸品の「い草の敷物」をモチーフとして扱いました。

そして僕がアートフェアや靴販売のように「アートの経済的価値」を探っているのは、ただただ、その現状を知りたいからですね。作品に値段もつかないようなアーティストが「アートの経済的価値」を語るべきではないという想いからです。靴のようなプロダクトに関わるのは、さらに「アートの経済的価値」の「振り幅」を探るためです。いわゆる「ガチのアート」ではないお金の産み方を、アーティストが自立してできるのかどうか。

山本:
天心さんの扱うテーマは札幌の作家の中でも特にどこまでも壮大に設定可能というか、引き受けるデカさがローカルサイズをはみ出てますよね。テーマ自体に札幌的なローカル性を関係させる必要もなく、逆に範囲が広いほど説得力が増しそう。今回の非常に興味深いカンボジアの体験記を聞くと、国外を常に視野に入れたスケールで思考することがテーマのスケールと合ってるように思うんですが、そのスケール感の設定はどう考えていますか?

風間:

もちろん、あらゆる文化圏へのスケールを設定しています。これは高橋さんの話にもつながりますが、今はあえて日本の現状を掘り下げることを選んでいます。フランスにいる間にいくつか大きなスケールのことを考えましたが、そこに説得力を持たせるためには、むしろ自分自身の足元を見つめるべきと感じました。そして日本の特殊性、僕の場合は特に日本宗教の特殊性を掘り下げることが重要と思うようになりました。

山本:
カンボジアに行ってみて、そのスケール感に変化はありましたか?

風間:
例えばアンコールワットは風雨に晒されてガラガラに崩れたままの状態だったりして、きっと日本と同じような「自然に対する敬意」が根底にあるんだろうなと感じました。勝手に日本独自と思い込んでいた思想や文化がカンボジアにも通底していることが沢山あるんだと思います。一方でクメールルージュ時代の名残で異常に戸締りが厳重だったり、有線の電話がなかったお陰で携帯の普及率やFacebookの使用率が高かったり、カンボジアならではの歴史が今の生活環境にも強く影響しています。
今までは「日本 対 西欧」という対立軸でしか見ていなかったのですが、アジアにおける歴史的背景や、通信技術と情報共有の世界規模での変化を考えなくては「個人の信仰」の差異を見極められない気がしています。

山本:
では、そろそろお二人合わせた話題に移行しましょうか。